偉大なるキャプテン ダリオ・ヴェロン
昨日(日曜日)で35歳の誕生日を迎えた、PUMASの偉大なるキャプテン「ダリオ・ヴェロン」。そこで、ヴェロンの「10のトリビア」を。
1.初オリンピックスタジアム
2003 年 リベルタドーレス杯ベスト16対コブレロア(チリ)戦。ヴェロンをメキシコへ連れてきたPUMAS元オーナーのアルトゥーロ・エリアス・アジュブにとって、この2003 年4月24日という日は生涯忘れらない1日である。彼曰く、そのパラグアイのチームのセンターバックに惚れ込んで、コブレロアのオーナーへ「この選手はいくらで契約出来るのか?」と聞いたくらい、彼はゾッコンだった。
2.デビュー戦
2003年前期シーズン開幕戦に、PUMASはハリスコ州のグラウンドで大勢のチーム補強選手の1人として紹介した。ホワキン・ボテロ、イスマエル・インニグェス、ホワキン・デロルモとダリオ・ヴェロンをウーゴ・サンチェス監督のもとトッププランにチームを戻すために人物像を描き出した。2003年8月9日は歴史的な背番号「4」としてデビューするとともに、0-1のスコアによってアトラスに勝利するために、グアダラハラにおいてレギュラーシーズン最後の勝利として大学の歴史の中に記録された。
3.初ゴール
デビューしてたった4日で、ダリオはなぜクラブの補強選手として連れて来られたかを示すことになった。2003年8月13日オリンピック・スタジアムでの対クラブ・アメリカとのメキシコシティーダービーにおいて、前半28分に初得点をマークした。ペナルティエリアの端にリバウンドした後、ダリオはボールを拾ってアルベルト・ベセラによるディフェンスを交わしてよく鍛錬された左足で角度を付けたシュートを放った。彼は『真の宝石』であった。その試合は、PUMASが4対3で勝利した。
4.初タイトル
2004年という年はリーグ連覇と サンティアゴ・ベルナベウ・カップ(プレシーズンマッチ)を獲得した、PUMASサポーターにとって決して忘れることのできない年であった。シーズン前半にPUMASはレギュラーシーズンを勝ち点41をあげ、順位表で第2位となった。リギージャ(決勝トーナメント)は非常に難しい勝ち抜き戦となり、対チーバスとの決勝戦まで辿り着いた。我々のホームスタジアムで、サポーターの前で2ndレグにおいてPUMASは13年間無冠という屈辱を晴らした。アルベルト・メディーナのPK失敗で、チームの祝福の輪が広がった。クラブに到着してちょうど2つめのトーナメントで、ダリオは王者となる栄光を知ったのだった。
5.対プエブラ戦のゴール
それはベロンにとって栄光であり、神の肖像を与えた瞬間だった。もしあなたが真のチーム・サポーターであるならば、あの瞬間とどうやってゴールの雄叫びをあげたか忘れないだろう。2009年後期シーズン準決勝の89分、PUMASはホームで2対0で負けていて、そのままでは決勝戦に行けずトーナメントに別れを告げようとしていた。イスラエル・カストロは瞬時にグラウンドのスリークオーター・センターからセンタリングを送って、ヘディングシュートをホルヘ・ビジャルパンドが守るゴールの奥へ決めた。オリンピック・スタジアムはまるで爆発したかのように、感動の渦に巻き込まれた。最終的にこの対パチューカ戦はPUMASの勝利に終わるとともに、魔術師(ダリオ・ヴェロンのニックネーム)は切望していた決勝戦を勝ち取ろうとしていた。
ヴェロンの歴史のための1試合は、2009年前期シーズン第15節のオリンピック・スタジアムで夜9時に行われたものである。PUMASは、今までにないくらいクラブの紋章が大きく付いた美しい既製レトロユニフォームで対クラブ・アメリカ戦をプレーしていた。21分のコーナーキックで完全にフリーだったダリオは、ギジェルモ・オチョアが守るゴールポストすれすれに驚異的なヘディングシュートを決めた。それは、先制点の正確な画像でも見ているかのようであった。ヴェロンは、再びもう一つのコーナーキックでノーマークで反対側のポストへボールを押し込んだ。オチョアは放たれたボールに決して追いつくことはなかった。そしてPUMASは44分にすでに2対0で勝っていた。最終的に、試合は3対2でPUMASが前半にあげたアドバンテージによって勝利しようとしていた。
7.再び、対クラブ・アメリカ戦
舞台は改善されることは不可能であった。2010年前期シーズンのアステカ・スタジアムでリギージャ(決勝トーナメント)進出を賭けた試合で、ペナルティエリア内でヴェロンはボールを奪い信じられないようなフィニッシュでオチョアが守るゴールラインへショットを打ちつけ、唯一のゴールを決めた。対クラブ・アメリカ戦は、ダリオが最も多くゴールを決めている相手である。これは現在までにマークしている、最後の通算5得点目である。
8.歴史的偉業
PUMASが7回目のリーグ優勝を決めた2011年後期シーズンモナルカス・モレリアを合計3対2で破った最終戦で、ベルナル、レアンドロ、イスラエル・カストロ、ヴェラルデ、リカルド・フェレッティとピコリンらと分け有った名誉で、ダリオはクラブの歴史の中で最もタイトルを多く獲得したプレイヤーになった。2004前・後期、2009年後期、2011年後期の4タイトルとチャンピオン決定戦、さらに対レアル・マドリードに勝利したサンティアゴ・ベルナベウ・カップ(プレシーズンマッチ)そして2005年の対ボカ・ジュニアーズのコパ・スダメリカーナ準優勝が彼によってもたらされた遺産の一部である。
9.キャプテン
2011年のタイトル獲得はデフェンシブ・ハーフのイスラエル・カストロがキャプテンであった。それはドラフトによってクルス・アスルへ移籍するにあたって、PUMASにおける歴史の終わりに作られたものであった。翌シーズンには、引退しようとしていたファン・フランシスコ・パレンシアへのオマージュとしてキャプテン・マークは授与された。ベテランのヴェロンは、名誉を受けるためのキーマンとなった。2012年後期シーズンは、ダリオがキャプテン・マークの負担し始めるトーナメントとして記録されている。そして、今日までグラウンドの内外でチームのリーダーシップを発揮するところとなっている。
10.400試合出場
2015年後期シーズン第3節の対トルーカ戦において、この偉大なキャプテンはリーグ通算400試合出場を記録し、レアンドロから背番号400のジャージを名誉として贈られた。これは、クラブ所属の外国人によって打ち建てられた最も多い記録である。第15節対ベラクルス戦でミゲル・エスパーニャが持っていた410試合出場の記録を破り、PUMASのもう一つの歴史をつくった。先週日曜日の試合までに413試合(レギュラーシーズン370試合・リギージャ43試合)を上回る記録は、セルヒオ・ベルナルのリーグ519試合のみである。PUMASとともに11のカップ戦と14のトーナメントにおいて413試合出場し続けており、合計438試合になろうとしている。それらの試合で、20ゴール(リーグ戦17ゴール、リギージャ2ゴールとCONCACAFチャンピオンズリーグで1ゴール)を記録している。そして2014年後期リーグは、その中で最も多い3ゴールをマークしている。