Pumas de la UNAM

メキシコサッカー1部リーグのクラブ・ウニベルシダ・ナシオナルを応援している日本人の備忘録

ルイス・ガルシア・ポスティーゴの回想録にニコラス・カスティージョ

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PUMASのセンターフォワードは歴史的に有名なポジションとなっていて、数十年前にその座に君臨していた自分自身のことには触れないし、自慢をするつもりもない。

 

しかし偉大なるカビーニョ(メキシコリーグで415試合で312ゴールを決め8度の得点王に輝いた史上最高のFW=74年にPUMASに加入、1975~76シーズンから4度の得点王、78-79シーズンにはチームメイト:ウーゴ・サンチェスとタイトルを分け合うも、リーグ優勝はPUMAS時代の76-77シーズンのみ)は、間違いなく神々の領域に達していたと言えるだろう。

 

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いくつかの長く謳歌した時代に、崇高なメキシコ人サッカー選手たち:ウーゴ・サンチェス、ルイス・フローレスらは背番号9を付けてプレーをすべき椅子を与えられていた。自分は彼らとトレーニングと試合との両方でプレーが出来る名誉と喜びを感じていた。そして疑いようも無く、あらゆる角度から最大限に見てそれは喜びであった。

 

いくつかの彼らとの逸話を紹介しよう。ルイス・フローレスとは、彼が抜群の活躍(31試合12得点)をしたスポルティング・デ・ヒホン(スペイン1部リーグ)から帰国してきて、まるで子供を怖がらせるようにロッカールームのボスとして専制君主みたいに語りかけた一場面があった。

 

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初めてロッカールームに入る彼を見たとき、その口髭がとても印象的で身長が2メートルくらいあるように見えた。心の中で我々を虐めるひねくれた英雄を想像したが、その魅力的なキャラクターと偉大な品格の人間性はすぐにそうでないことを明らかにし、皇帝のような尊厳を剥がしチームの1員であることを示した。さらにトレーニング後にペナルティエリアで追加でシュート練習に付きっきりで残ってくれて、いつも偉大なコーチとなってくれた。

 

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ウーゴ・サンチェスは、さらに印象的であった。私がアトレティコ・マドリードでプレーをしに行こうとしていた時、サッカーとスペインでの生活に対するアドバイスをしてくれるために大学都市にある彼の家に招待してくれたことをよく覚えている。実際には私は音も立てず一言も話さずに、ただただ彼が言ったことすべてに頷くだけであった。

 

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その後1994年アメリカ・ワールドカップ前のメキシコ代表合宿で、トレーニングセンターに滞在したときであった。部屋は4人に対してベッドが3つしかなく、彼は私をダヴィッド・パティーニョ(現コーチ)を押し付けたんだ。

 

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彼と私は当時スペインでプレーをしていて、私の親友ダヴィッドは夜に遊ぶ時間になると悪態をついた。彼はスポーツバッグ以外に小さな黒いブリーフケースを身に付けており、セッションの後、イベリコ豚のハムやケソ・マンチェゴ(スペインのラ・マンチャ地方を発祥とする、羊乳を原料としたチーズ)とワインのボトルを取り出して、私達に軽食を作ってくれたときは驚きであった。

 

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話をサッカーに戻そう。長い年月の間、国内外の選手を問わずPUMASのセンターフォワードとして素晴らしい選手が輩出することがなかった。その沈黙を破ったのは、ニコラス・カスティージョであった。若干24歳になったばかりで世界各地を渡り歩き、鳴り物入りで加入し興奮させた。

 

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自国チリ1部リーグのウニベルシダ・カトリカからベルギー1部リーグのクラブ・ブルッヘやブンデスリーグのFSVマインツ05、セリエBのフロジノーネ・カルチョでプレーをした後、再びウニベルシダ・カトリカに戻ったキャリアは非常に説得力のあるものだ。彼のキャリアは、効果的に実践するための保証として多くの情報、学習や経験を集めている。経験豊富なスキルと組み合わたのは、チリ代表ユースとして絶対的な存在であったことだ。2013年南米ユース選手権で第4位で、同年トルコで行なわれたFIFA U-20ワールドカップで準々決勝で同大会3位で終えたガーナに惜しくも敗れた。

 

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そしてフル代表では昨年からそのキャリアをスタートさせたばかりだが、いずれはワールドカップのような大舞台で活躍する日が来るだろう。南米サッカー連盟100周年のコパ・アメリカ2015では、決勝戦延長後半4分に大会得点王に輝いたエドゥアルド・バルガスに代わって出場したのみであった。繰り返しになるが直近における過去の成績はあまり輝かしいものではなく、メキシコ1部リーグにおける2試合もそうである。

 

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彼のデビューだった対CDグアダラハラ戦では、開幕戦で一番活発なプレーをして見せた。激しく動き回らなかったせいで、ペナルティエリアでそう消耗しなかった。そして、対クルス・アスル戦における華麗なデモンストレーションだ。チームは良く戦ったし、断片的な場面でも相手を上回った。いくつかの粗いプレーはさておき、ピッチを完全に支配した。

 

終盤数分は退場でピッチから去りボールを触るシーンも減って、相手を再び数的不利な状況から再生させた。彼の得点は勝利を呼び込み、数年にわたってクルス・アスル戦では勝てなかった状況を打開したので、とても適切であった。我々はそのアクションを深く分析する必要がある。

 

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サイドスローインから放ったシュートは、組み合わさった芸術作品のような甘い香りが漂う。そのボールに対するファーストタッチと、後ろで守っていたディフェンダーに対して仕事をさせない激しいポジショニングであった。自分が立っていなくてはいけない場所と、次に何をしなくていけないかを完全に把握している聡明さである。太ももでボールにタッチし、その直後に冷徹なボレーシュートを放った。

 

サッカー選手では無くまるでクラシックバレーダンサーのような可塑性で、回転しシュート。そして最後に我を忘れて、生まれ付いた競争本能とどんなにサッカーを愛しているかを表現することを止められないようなゴールパフォーマンスをした。彼のゴールは可能な全てのものを包含し、過去に捉われることのない生き方と手にした可能性を夢見て、往年の偉大なPUMASのセンターフォワードたちが持っていた狂乱さやクオリティー、頻繁さを取り戻す。

 

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ルイス・ガルシア・ポスティーゴ

 

あだ名はドクター、メキシコシティ出身の1969年6月1日生まれ(47歳)。PUMAS下部組織出身で、1986~87シーズンに17歳でメキシコ1部リーグデビュー。90~91年シーズンにリーグ優勝。1992~94年にアトレティコ・マドリード、94~95年にレアル・ソシエダへ移籍。帰国後95~97年にクラブ・アメリカ、アトランテFC,98~2000年にCDグアダラハラ、晩年にはモナルカス・モレリア、プエブラFCにそれぞれ所属し、リーグ通産158得点(1991、92、97年に得点王)。メキシコ代表としては77試合に出場し、ウーゴ・サンチェスやルイス・フローレスと並ぶ29得点を挙げた。1994年米国(対アイルランド戦2得点)、1998年フランス・ワールドカップ(出場機会無し)など多くの大会に招集され、1995年のコパ・アメリカ ウルグアイ大会では大会得点王にもなった。現役引退後は、テレビ局のコメンテーターを務めている。