Pumas de la UNAM

メキシコサッカー1部リーグのクラブ・ウニベルシダ・ナシオナルを応援している日本人の備忘録

PUMAS創設68周年記念企画・知られざるダニエウ・アウヴェス その1

 

本日9月12日は、PUMASのクラブ創立68周年記念日です。

 

 

そこで今シーズン補強選手である、ダニエウ・アウベスに関するこれまで知られていなかった過去を、チームメイトであるエフライン・ベラルデが配信している『ベラルデの家』で行われた独占インタビューの内容を書き起こしでお送りいたします。

 

PUMAS:ダニエウ・アウベスのサッカー選手としての道のりは、こうして始まった

 


彼は生まれ育った街のピッチでボールを蹴る前は、ミュージシャンになりたいと思っていた

ダニエウ・アウベスと言えば、誰もが世界各国リーグで数え切れないほどのタイトルを獲得したというイメージを思い浮かべる。リオネル・メッシの相棒のように見なし、信じられないほどの数の選手たちとの一時代を築いた。しかしながら、彼がある時期にバスの運転手をしていたことは、あまり知られていない。PUMASのチームメイトでもあるエフライン・ベラルデがインターネット上で公開している動画(YouTube)で、彼は幼い頃の音楽と同じように、彼のサッカー選手としての物語がどのように始まったのかを段階的に語ることにした。
「我々は田舎に住んでいた。そこで自分の父親は、トマトや玉ねぎなどを栽培していた。自分が子供の頃、父親が働いている姿を見ながら、いつもこういう風になりたいと思っていた。彼を見ていた時、自分はお父さんを助けなればならないと言った。自分はバスの運転手や映画のフィルム巻き取り作業、その他多くの仕事をしていた。だから、通っていた学校まで20キロ歩かなければならなかった。自分はサッカー選手ではなく、ミュージシャンになりたかったので、楽器を作ってバンドを立ち上げた。父親はサッカーに夢中だったので、自分の弟がサッカー選手になることを望んでいたが、弟はサッカー選手になれなかった。そこで初めて、今度は自分が父親の夢にトライしたいと思った。」

 


父親の夢を叶えるという決断を下した後、困難な時期が訪れた。 彼が生まれ育った場所から離れることに加えて、最初のプロクラブに入団する前から彼のことをすでによく面倒を見ていた場所で、家族から離れてボールを追いかけることができるようになった。
「父親は自分をプレーさせるためにサッカーチームを作った。そこから自分のサッカー人生が始まった。その後父親は自分がサッカースクールに入ってトライするために、街に住まわせた。難しい瞬間に自分を怖がらせたり、自分の目標から逸らしたりしたことは一度も無い。夢が自分のものであれば叶えることが出来るが、それが自分の人生で最も重要な人であれば、不器用なもしくは間違ったことをしている暇は無い。」


 

最も困難な瞬間の1つであったのは、実家に電話する電話代もなかったので、サッカーボールを追い掛けることよりも、母親から離れることは難しいと認識した時だった。全てが報われたのは、バスの運転手として月に5ドルか10ドル稼ぎながら最初のチームが契約してくれた瞬間だった。

「父親が母親抜きで訪ねて来て、ECバイーアからの招待状が届いたと告げられた。その時、自分はこのチャンスを逃すつもりはないことを伝えた。自分はバイーア州の州都:サルヴァドールでサッカー選手としての人生を始め、契約にサインをした。バスの運転手で月に5ドルか10ドルを稼いだ。それが、最初の自分のサッカー選手人生だった。自分が入団した時には他にも困難なことがあって、実家に電話する方法が無かった。4か月後に、やっと母親に電話をすることが出来た。自分が最初のチームでデビューしたのは18歳の時だ。」