Pumas de la UNAM

メキシコサッカー1部リーグのクラブ・ウニベルシダ・ナシオナルを応援している日本人の備忘録

通算最多得点第29位:フランシスコ・パレンシア(28得点)

 

ファン・フランシスコ・パレンシア・エルナンデス

身長:172cm 体重:76kg

1973年4月28日生まれ(49歳)

デビュー:1994年12日23日(クルス・アスル)

経歴: 1994~2001,2002~2003年クルス・アスル(294試合110得点)、2001~2002年RCDエスパニョール(リーガエスパニョーラ、31試合6得点)、2003~2005年CDグアダラハラ(93試合18得点)、2005~2006年CDチーヴァス・USA(メジャーリーグサッカー、34試合8得点)、2007~2011年PUMAS(181試合28得点)

タイトル:1997年前期ステージ、メキシコ杯(クルス・アスル)、2009,2011年後期ステージ(PUMAS)、1996,1997年CONCACAFチャンピオンズリーグ(クルス・アスル)

1998年CONCACAFゴールドカップ、1999年FIFAコンフェデ杯メキシコ大会

個人タイトル:1995年メキシコサッカー1部リーグ・新人王(クルス・アスル)

メキシコ代表歴:80試合12得点

1995年パンアメリカン競技アルゼンチン大会で、アンダー23代表として決勝進出。地元アルゼンチンに敗れ、銀メダル。翌年のアトランタ五輪では準々決勝進出するも、後に金メダルを獲得するナイジェリア代表に敗れた。A代表デビューは1996年6月6日、アメリカ合衆国サッカー連盟主催のUSA杯(対ボリビア代表戦)。1997年コパ・アメリカ・ボリビア大会では準決勝進出、地元であった対ボリビア代表戦に敗れた。1998年にはCONCACAFゴールドカップに出場、決勝の対米国戦に勝利して優勝。その後、1998年FIFAワールドカップ・フランス大会では2試合(予選リーグ対ベルギー戦、ラウンド16対ドイツ戦)に出場。1999年FIFAコンフェデ杯メキシコ大会では、決勝の対ブラジル戦(4-3)の後半25分に途中出場。2002年FIFAワールドカップ・日韓大会にも連続出場、予選リーグの対ホンジュラス戦で得点。2006年ドイツ大会や2010年南アフリカ大会の北中米カリブ海地域予選にも出場したが、本大会で招集されることはなかった。2011年4月13日に代表引退。

 

 

クルス・アスルの下部組織出身。1994年12日23日前期ステージ第18節の対CFコレカミノスUAT戦(ホームゲーム、3-2)でメキシコサッカー1部リーグデビュー。翌シーズンからアシストや得点を増やして、素早くレギュラーポジションを獲得。良い試合結果のおかげで、1996年メキシコ杯(対ネサFC戦)においてセルヒオ・ベルデラメに代わって途中出場し、16年ぶりのタイトルをクラブにもたらした。翌年1997年前期ステージ(対クラブ・レオン戦)には、8度目のリーグ優勝を飾った。その間に、CONCACAFチャンピオンズリーグ連覇も達成。1998年にはエース:カルロス・エルモシージョの退団に伴ってキャプテンマークを譲り受け、2001年にRCDエスパニョール(リーガエスパニョーラ)へ移籍するまで巻き続けた。最も素晴らしい瞬間は2001年コパ・リベルタドーレスであって、決勝戦における対ボカ・ジュニアーズ戦は壮絶な試合となり、アウェーゲームで同点に追い付くゴールを決めたものの、惜しくも1点差で敗れました。

2001年には輝かしい実績を引っ提げて、リーガエスパニョーラのRCDエスパニョールへレンタル移籍。1年間で31試合6得点をマークしたが、翌年再びクルス・アスルへ。2003年コパ・リベルタドーレスでは準々決勝へ進出、対サントスFC戦で1stレグを2-2。アウェーゲームの2ndレグで、ロビーニョによる得点で惜しくも敗退。在籍中に首脳陣との強い摩擦が生じ、ロッカールームも別にされるほど。最終的に、セバスティアン・アブレウやパブロ・ガルダメス、ジュリオ・セザール・ピニェイロ・ガルシアらと共にクラブから契約を取り消された。2003年にCDグアダラハラへ移籍。徐々にチームにフィットして、2004年後期ステージのリギージャ(プレーオフ・対PUMAS戦)決勝で、ペナルティキック決着に敗れた。翌年コパ・リベルタドーレスへ出場、準決勝で対アトレチコ・パラナエンセ戦の1stレグ(アウェーゲーム、0-3)、2ndレグ(ホームゲーム、2-2)スコア合計2-5で敗れた。本トーナメントにおいて、チームの得点王:オマール・ブラボ(6得点)に次ぐ5得点を決めた。その後、CDチーヴァス・USAへ移籍。2007年にPUMASへ移籍、最初はほぼサブメンバーでプレー、浮き沈みのあるシーズンを過ごした。2009年後期ステージで絶好調に回復、チームの攻撃陣を引っ張り重要な得点やアシストをマークした。総合順位表首位で臨んだリギージャ(プレーオフ)では、対CFパチューカ戦で勝利。自身のキャリアにおいて、2度目のリーグ優勝を果たした。2011年後期ステージでも、リギージャ決勝で対モナルカス・モレリア戦を勝利し、2011年11月28日にクラブアカデミー施設で現役引退の記者会見を開き、プロサッカー選手としての引退を表明した。

2015年FCサン・クガ(カタルーニャ3部リーグ)で監督としてのキャリアを開始。2016年5月30日に前ギジェルモ・バスケス監督の後任として、2017年8月23日(前期ステージ第6節)までPUMASの監督として就任。その後浪人して、2018年6月1日ロボス・デ・ラ・BUAPの監督に。FCフアレスへのフランチャイズ売却によって、再び解任。2020年前期ステージにはマサトランFCの監督に就任。