Pumas de la UNAM

メキシコサッカー1部リーグのクラブ・ウニベルシダ・ナシオナルを応援している日本人の備忘録

通算最多得点第13位:ホルヘ・カンポス(46得点)

 

ホルヘ・カンポス・ナバレテ

身長:168cm 体重:67kg

1966年10月15日生まれ(55歳)

デビュー:1988年12月11日(PUMAS)

経歴: 1988~1995,1998~1999,2001~2002年PUMAS(269試合46得点)、1995~1997,2000~2001年アトランテFC(77試合1得点)、1996~1997年ロサンゼルス・ギャラクシー(メジャーリーグサッカー、52試合1得点)、1997年クルス・アスル(2試合無得点)、1998年シカゴ・ファイアーFC(メジャーリーグサッカー、10試合無得点)、2000年UANLティグレス(17試合無得点)、2002~2004年CFプエブラ(25試合無得点)

タイトル:1990年(PUMAS)、1997年メキシコサッカー1部リーグ(クルス・アスル)、1998年メジャーリーグサッカー、1999年USオープンカップ(共にシカゴ・ファイアーFC)

個人タイトル: 1990,1991,1992,1993,1994年メキシコサッカー1部リーグ最優秀選手、1993年最優秀ゴールキーパー世界第3位(国際サッカー歴史統計連盟)、四半世紀(1987~2011年)世界のゴールキーパー10傑入り(国際サッカー歴史統計連盟)、2011年国際サッカー殿堂入り、2016年メキシコサッカー1部リーグにおけるキャリアが評価され、バロンドールを受賞

メキシコ代表歴(世界大会・決勝トーナメント):計41キャップ

FIFAワールドカップ3大会連続(1994年アメリカ大会、1998年フランス大会、そして2002年日韓共催大会)出場、全てベスト16入り

コパ・アメリカ(南米サッカー連盟が主催する、世界最古の代表チームによる大陸選手権大会。旧称は南米選手権)1993年エクアドル大会準優勝、1995年ウルグアイ大会ベスト8、1999年パラグアイ大会第3位、2001年コロンビア大会準優勝

1993,1996年CONCACAFゴールドカップ優勝

1995年第2回キング・ファハド・カップ(前コンフェデ杯・サウジアラビア大会)第3位

1996年アトランタ五輪・準々決勝

1999年第4回コンフェデ杯・メキシコ大会優勝

 

 

メキシコの高級リゾート地であるゲレロ州アカプルコ市近郊のプラン・デ・ロス・アマテス生まれ。小さい頃から運動神経は抜群、サーフィン選手としても一流のセンスを見せたが、熱狂的なサッカーファンだった父親の英才教育を受けてサッカーのプロ選手を目指すようになる。高校卒業後、メキシコ3部リーグの地元アマチュアクラブに入団、すぐにレギュラーゴールキーパーとして活躍する。1988年、メキシコサッカー1部リーグのPUMASとプレシーズンマッチを行った際に、小さな身体をフルに使ってゴールマウスを死守。さらに味方のカウンターチャンスには自らがドリブルで前線へ切り込み、コーナーキッカーまで務めるという大胆さと技術の高さが相手チームコーチ陣の目に止まり、PUMASとプロ契約を交わす。

当時PUMASにはアドルフォ・リオスというメキシコ代表ゴールキーパーがいたため、カンポスはフォワードにコンバートされ、プロ2年目の90年シーズンには49試合で22得点を記録。翌91年シーズンにはリオスの負傷もあって二刀流で活躍、PUMASの1部リーグ優勝に貢献した。翌シーズンにはスタメンゴールキーパーとしての地位を確固たるものとして、総合順位表第5位でリギージャ(プレーオフ)へ進出。後にリーグ優勝を果たすクラブ・レオンに敗れた。1993年には国際サッカー歴史統計連盟はそのキャリアにおける爆発的なスタートとメキシコ代表における卓越したプレーを見て、デンマークのピーター・シュマイケルとアルゼンチンのセルヒオ・ゴイコチェアに次ぐ、最初で唯一のメキシコのゴールキーパーとして、世界で3番目に優れたゴールキーパーとして認定した。

 

1995年にはアトランテFCへ移籍。翌年3月21日の対クルス・アスル戦ではゴールキーパーとしてスタメン出場しつつ、ハビエル・アギーレ監督はフォワード陣が得点出来ないのを見て他選手をゴールキーパーに仕立て、彼を攻撃陣に加えバイシクルシュートを決めた。さらに翌年、クラブ創立2年目のロサンゼルス・ギャラクシー(メジャーリーグサッカー)へ移籍。リーグ最初の外国人選手スターとして、かなりの人気を博した。1996年メジャーリーグサッカー杯ではディフェンディングチャンピオンのクルス・アスルに対して2-0で先制しリードを拡げたが、2-5まで逆転された後にゴールエリアからピッチへ入ってロングシュートを決め、最終的に3-5で準優勝をした。

さらにその1ヶ月後、1997年前期ステージにクルス・アスルへの移籍が発表された。ゴールキーパーとしての移籍であったが、レギュラーポジションにはオスカル・ペレス・ロハス(FIFAワールドカップ2002年日韓大会、2010年南アフリカ大会のメキシコ代表正ゴールキーパー)がいたので、主にフォワードとしての起用出場であった。このステージのレギュラーシーズンは、総合順位表第2位でリギージャ決勝において首位クラブ・レオンと対戦。1stレグをホームゲームで1-0と勝利し、2ndレグを敵地でカルロス・エルモシージョによる延長戦におけるペナルティーキックで8度目のリーグ優勝。

1998年、当時新設されたばかりのシカゴ・ファイアーFCへ移籍。最初のシーズンでウエスタンカンファレンスを第2位でフィニッシュ、プレーオフ準々決勝でコロラド・ラピッズ、準決勝でロサンゼルス・ギャラクシー、決勝でDCユナイテッド(2-0)を破ってリーグ初優勝。その翌年にはUSオープンカップ決勝で対コロンバス・クルー(2-1)と勝利し、優勝した。

 

メキシコ代表として、歴代第6位(ゴールキーパーとしては最多)となる計129試合出場。代表デビューは、1992年11月20日の対ウルグアイ戦(1-1)。1993年にはコパ・アメリカのエクアドル大会においてアルゼンチン代表と対戦し、ガブリエル・バティストゥータによる2ゴールで惜しくも準優勝(2-1)。最も素晴らしい成功を収めたのは1999年第4回コンフェデ杯・メキシコ大会で、アステカ・スタジアムにおいてロナウジーニョを擁するブラジル代表に4-3で勝利し、メキシコサッカー史上に残る優勝。

FIFAワールドカップには1994年アメリカ大会、1998年フランス大会(共にレギュラーポジション)、そして2002年日韓共催大会(サブメンバー)として3大会連続出場した。