Pumas de la UNAM

メキシコサッカー1部リーグのクラブ・ウニベルシダ・ナシオナルを応援している日本人の備忘録

通算最多得点第8位:エンリケ・ボルハ(69得点)

 

エンリケ・ダビッド・ボルハ・ガルシア

身長:174cm 体重:不明

1945年12月30日生まれ(76歳)

デビュー:1964年3月1日(PUMAS)

経歴:1964~1969年PUMAS(112試合69得点)、1969~1977年クラブ・アメリカ(191試合99得点)

メキシコ代表歴:FIFAワールドカップ1966年イングランド大会(予選リーグ敗退)、1970年メキシコ大会(準々決勝進出)、1966~1975年(計32得点)

タイトル:1970,1975年メキシコサッカー1部リーグ、1973年メキシコ杯、1976年メキシコスーパーカップ、1977年CONCACAFチャンピオンズリーグ(全てクラブ・アメリカ)

個人タイトル:1970,1971,1972年リーグ得点王

 

 

17歳の時にサン・ルイス・ポトシ州で行われた第7回全国大会で優勝したユースチームの一員で、そこでPUMASの下部組織へスカウトされた。当時のユースアカデミーでは、ボカ・ジュニアーズやCAリーベル・プレート、ユヴェントスFCなどの錚々たるビッグクラブで指揮を執ったことがあったイタリア人:レナト・セサリニの下で、下部組織として若手選手のために包括的な開発プログラムを開始しており、エンリケ・ボルハはその1期生となって1963年にTOPチームへ合流。1964年3月1日、メキシコ杯において対CDサカテペク戦でカルロス・アルベルト・エチェベリに代わって途中出場することで、メキシコサッカー1部リーグデビューを果たす。リーグ戦デビューは、その1年後対モナルカス・モレリア戦。1965年シーズンからレギュラーポジションを獲得、1967年シーズンでリーグ準優勝。1968年シーズンでリーグ得点王に輝く。PUMASにおける5年間で69得点をマーク。

物議を醸した移籍

1969年3月27日に40万ペソの取引を行った後、PUMASからクラブ・アメリカに移籍。当時のクラブ社長:アンドラデ・プラディージョによると、この移籍はエンリケ・ボルハが昇給を望んでいたために発生したとのことであった。しかし彼はチームの変更を受け入れなかった。

「自分はPUMASでプレーをし続けるという目的で取った態度であり、決してクラブ・アメリカでプレーをしたくない訳ではない。」

その後移籍を中止するか、PUMASが買い戻しオプションまで話があった。プロチームの運営組織が会合を開き、この選手は計画に含まれておらず、この問題は彼と彼の新しいチームの間で解決しなければならないことを公式に発表したときに、この問題は終わった。結局、7月4日にクラブ・アメリカと契約を結んだ。選手として引退後は、クルブ・ネカクサやUANLティグレス、メキシコサッカー連盟の会長を歴任した。